理念と信念
理念
数ある習い事の中で空手を含めた「武道」はある意味異質の類に分けられると思います。
通常、習い事で身につけた技術は生活の中で(あるいは学校の授業で)直接役に立つ物が大半です(習字、そろばん、英会話、水泳 etc…)。当然「やっててよかった」と実感できる機会も多いでしょう。一方 空手の「基本動作」や「型」が生活の中で役に立ったという話はあまり聞いた事がありません。まして人を倒す事が目的とされる「組手」の技術が普段の生活の中で使われる事はあってはなりません。ではその技術自体は生活に結び付かない「空手」を学ぶ意味とは…
《武道としての空手》
武道を学び、修得していく上で精神的支柱となるものが「武道精神」です。武道精神とは「武士道精神」より由来しています。「武士道」とはその名の通り、武士が常日頃より心得ておくべきとされた教えですが、武士だけでなく全ての日本人の道徳観念の礎となってきました。武士道を要約すると、「義」(正義)、「勇」(勇気)、「仁」(優しさ)、「礼」(礼節)、「誠」(誠実) 等の概念から成り、常に高い意識を持つ事、そして何よりも武士である事の誇りを忘れるべからずと説いた教えです。正にこの中にこそ現代社会が求める人間像があるのではないでしょうか。また武士道の中では「恥ずかしい姿を晒す」「みっともない事をする」という事が最も忌み嫌われました。現代の若者の中には思わず眉をひそめてしまうような姿や行動を取るものが少なくありません。彼らは一様に「自分が好きでやっている。」「他人に迷惑をかけていない。」などと口を揃えます。確かにルール違反ではないかもしれませんが、明らかにモラルが欠如しています。以前ならば「みっともないから やめなさい。」の一言で済んだはずですが、現在ではそういった言葉が、もはや抑止力を失いつつあります。近頃、このようなモラルの低下が問題視され、道徳教育の重要性が再認識されつつありますが今こそ日本特有の道徳概念である武道(武士道)精神を学ぶ事が有意義であると思います。
以上の事より、私共 郷英館が考える「空手を学ぶ意味」とは
◎空手の修業を通じて武道精神を学び、厳しい現代社会を生き抜く強さを身につけ、社会から求められる人間への成長を目指す
◎ルール以前に自分のモラルに従って行動し、信念を貫く事ができる人間への成長を目指す
という事です。
そして郷英館はそのような若者の人間形成の場と成り得る道場作りを目指します。
《格闘技としての空手》
当館はフルコンタクトカラテ、いわゆる実践空手と呼ばれるスタイルの空手道場です。大人だけでなく子供も直接ぶつかり合う組手を行います。もちろん組手の際にはヘッドガード・サポーター等を着用し、安全面には十分な配慮を行っていますが、それでも当然痛みは伴いますし、打撲やねんざ等のケガを負う事も少なくありません。
では何故子供の頃からそのような痛い思いをしてまで組手をさせるのでしょうか。その理由の一つに、実際の痛みを知る事によって他人の痛みがわかる人間になる、という事が挙げられます。また痛み、恐怖に立ち向かう事で強い精神と肉体を育みます。そしてやはり、実践的な強さ(腕っぷしの強さ)を身につけるという事に最大の特徴があります。使い方を間違えてしまうと凶器ともなりかねない「力」を子供に身につけさせる事に批判の声もあるかもしれません。しかし、武道の神髄を表すものに、次のような言葉があります。
『正義なき力は非道なり、力なき正義は無力なり』と。
大人は子供に対して よくこんな言葉をかけます。「いじめをしない事はもちろん、いじめられている子がいたら助けてあげましょう!」ですが、結果、その矛先が自分に向いた時、身を守る術を知らない子供にそれを求めるのは酷ではないでしょうか。注意はしたいが恐くてできない、そればかりか仕返しを恐れていじめに荷担してしまうというのはよく聞く話です。元来、子供というのは大人以上に正義感が強いものです。腕力に自信がないというだけで、その正義感を内に隠してしまう事の無い様に、「力無き正義」で終わらない様に、自分の身を、自分の大切な人を、そして自分の信念を守る為の『力』を身につける事は決して無意味な事ではないと私は考えます。そのような観点より、郷英館では『格闘技としての空手』にも重点を置き、実戦を想定した組手の技術向上に努めています。
前述以外にも、型を学ぶことで集中力を磨く、試合に臨む事でチャレンジ精神・勇気を育む等、多くの事を空手は教えてくれます。そして真摯に空手道の修業に邁進していく中で、様々な困難・障害を乗り越えて人間として成長していき、「空手を学んできてよかった」と実感できた時、身に付けた武道精神が人間形成の柱となり、その人生を力強く支えてくれるでしょう。